魂
ラジオのスタジオでヘッドホンとバンダナ姿で上を指さすショッカーO野
ショッカーO野 · スーパー戦隊魂 独占インタビュー
Shocker Ohno · 46 Years of Tokusatsu · Exclusive Interview

ショッカーO野:特撮に捧げた人生

『スーパーヒーロー魂』『スーパー戦隊魂』の司会を務めるショッカーO野さんが、百貨店の舞台での悪役デビュー、剣友会とJACの現場、石ノ森章太郎先生に名付けてもらった芸名、大葉健二さんとの朝までの一夜、そしてスーパー戦隊の終了について語らなければならなかった夜について、Kyoudai Expressに語ってくれました。

KYOUDAI EXPRESS 独占インタビュー·2026年9月19日·聞き手:シルビオ&フラビオ・ドリア

百貨店の舞台でデビューしてから46年。ショッカーO野さんが、新堀和男さん、大葉健二さん、石ノ森章太郎先生、「アニキ」誕生の瞬間、そしてスーパー戦隊の未来について、Kyoudai Expressに語ってくれました。

大野浩さんは横浜で生まれ育ちました。兄弟はなく一人っ子、両親が共働きだったので、必然的にテレビの世界にのめり込んでいった、正に「テレビっ子」でした。そんな中、オープニングに「原作・石森章太郎」のクレジットが並ぶヒーロー番組が、その後の人生の羅針盤になります。1980年、まだ学生だった大野さんは東松山の『ウルトラマン80ショー』で戦闘員のスーツに入り、その日のうちに悪の首領としてマイクを握ることになりました。Mプロジェクト所属として大野剣友会とJACの現場に入り、『仮面ライダースーパー1』第1話でアフレコデビュー後、『デンジマン』『ゴーグルファイブ』『ダイナマン』『バイオマン』『ギャバン』『シャリバン』のスタント、戦闘員、怪人を、さらに『オレたちひょうきん族』『8時だヨ!全員集合!!』『いきなりフライデーナイト』といったバラエティー番組では『月光仮面』『仮面ライダー』『快傑ライオン丸』『帰ってきたウルトラマン』等のヒーローを務め、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』では撮影初日に岡田勝さんから立ち廻りを買われる言葉をもらっています。

大野さんは石ノ森章太郎先生のお宅で何年も仕事をし、仮面ライダーの生みの親のマネージャーを務めました。「ショッカー」という呼び名が世に出たのは、さくまあきらさんのラジオ番組。その後、石ノ森先生が名付け親になります。そこからキャリアは、出版社の営業、放送作家、テレビ・イベントのプロデューサー、神谷明さんに師事した声優、アクション監督、タレントのマネージャー、そして著者へと広がっていきました。1988年に初のエッセー『ライダーキックは痛かった』を出したのをきっかけに、1989年にはヒーローショーの日常を描いた漫画『ショッカーO野の熱血ヒーロー日記』を刊行し、のちに『カルトクエスト~仮面ライダー編~』『全怪獣怪人大百科』や『スーパーヒーローショー大百科』、後楽園ヒーローショーの歴史をまとめた本を手がけています。

その歩みの中でいちばん人目に触れてきたのが、マイクを握る姿です。80年代末には新宿NSビルのヒーローショーで新堀和男さん監修の下、司会を務め、後楽園ゆうえんちの名司会・なりた洋さんの舞台を何百回と研究し、1997年には水木一郎さんに「アニキ」という呼び名を贈りました。1999年には特撮番組の楽曲だけで構成された初めてのライヴ『スーパーヒーロー魂』を発案し、現在も『スーパー戦隊魂』の司会を続けています。2026年11月には東京と大阪で公演が行われます。漫画のブラジル版がクラウドファンディングで進むなか、以下のインタビューでは、曇ったデンジブルーのマスク、大葉健二さんとの朝5時半のカツカレー、大百科を救った写真、そして観客を前にスーパー戦隊の終了について語らなければならなかった夜が語られます。

01テレビっ子

Kyoudai Express

横浜で育った子どもの頃、特撮はO野さんにとって何でしたか。46年間この世界で働いた今、特撮は何になりましたか。

ショッカーO野

両親が共働きだったのと、一人っ子で当時はゲームやインターネットもなく、必然的に「テレビっ子」になった訳ですが、中でも「特撮ヒーロー番組」は自分に勇気と希望を与えてくれる大切な存在でした。

高校生の頃、『宇宙戦艦ヤマト』に始まる折からのアニメブームの中で、リバイバルだった『サイボーグ009』にハマり、そこから『仮面ライダー』に代表される石ノ森作品や子供の頃見ていた特撮番組への情熱が爆発し、アクションの世界に始まる「特撮道」を歩むようになり、特撮を通じて、兄弟に代わる沢山の友人・仲間も得て、気がつけば「レジェンド」と呼ばれるようになるほど、人生の大半を特撮関連で過ごす事になりました。

02東松山でのデビュー

Kyoudai Express

初めての『ウルトラマン80ショー』で、戦闘員のはずが急に悪の首領としてマイクを持つことになったそうです。何百人の子どもの前で、どう切り抜けましたか。

ショッカーO野

埼玉県東松山市(ロケ地でもお馴染み「吉見百穴」の近く)のまるひろ百貨店だったのですが、リハーサルの時、突然悪ボスが「最近、ステージで喋る事がワンパターンで飽きた、何か新しいネタはないか」と言ったので、たまたま以前に他のチームがやってた志村けんさんのギャグの話をしたら「君がやってみろ」と、いきなり振られました。

元々ヒーローショー好きだったのが功を奏して、舞台度胸とアドリブで乗り切りました。それがデビューです。

03曇ったデンジブルーのマスク

Kyoudai Express

1981年1月、撮影用のスーツでデンジブルーをショーで演じられました。中に入る人間にとって、撮影用スーツとショー用スーツはどう違うのですか。

ショッカーO野

栃木県宇都宮市の東武デパートだったんですが、スーパー戦隊シリーズ(『電子戦隊デンジマン』以降)の場合、本来撮影用のマスクはゴーグル部分がシールド(グラス)になっていて、ショー用の場合、ゴーグル部分はFRP素材でボツボツの空気穴なので視界が良い。

撮影用のグラス面も通常ならさほど視界は悪くないのですが、但し、被ってアクションをすると思いっきり曇り、ほとんど見えなくなります。なので撮影現場では、本番前にJACの若手が曇り止め(主にシャンプーを使うので「面シャン」と呼ばれる)をするのですが、この日はまさか撮影用の面が来るとは思わず、被った瞬間に曇り、何も見えない状態で立ち廻りをやったので、間合いが分からず、絡み役の先輩達に拳が当たり放題(笑)だったと。

翌年の4月、武蔵野市の「交通安全祭」でやった『太陽戦隊サンバルカン』ショーでは、バルイーグルで小屋の上で立ち廻りしてから地上に飛び降りてアクションしながらメインステージまで走るシーンがあり、曇り止めはしてたものの小屋の裏の屋根の上で待機している間に熱気で曇ってしまい、これまた何も見えない状態で小屋の上からジャンプしたものの、着地のタイミングが分からず捻挫した事もありました。

04落ち方を教えてくれた人

Kyoudai Express

80年代のショーでは、マット代わりの段ボール箱に向かってかなりの高さから落っこちていました。落ち方はどうやって覚えるものでしたか。新堀和男さんはそれについて何を教えてくれましたか。

ショッカーO野

新堀さんには撮影現場での立ち居振舞いはモチロン、芝居や間合いなど、ショーやイベントでもいろんな事を学ばせて頂きましたが、僕に直接アクションを教えてくれたのは、同じ事務所・Mプロジェクトの先輩達でした。

当時『仮面(スカイ)ライダー』の最終回でXライダー、劇場版『仮面ライダースーパー1』でスカイライダー、『ウルトラマン80』のメダンの回で「避雷針80」等を担当された岩泉芳武(いわいずみよしたけ)さんに立ち廻り全般を、『仮面(スカイ)ライダー』の最終回や劇場版『仮面ライダースーパー1』でいずれもアマゾンライダーを歴任し、大野剣友会の上田弘司(うえだひろし)さんが忙しい時にトランポリンカットも担当された吉田信一(よしだしんいち)さんにスタントを教わりました。

05剣友会とJAC

Kyoudai Express

同じ時期に剣友会の現場とJACの現場の両方を経験されています。それぞれの仕事の進め方はどんなものでしたか。岡田勝さんの現場と金田治さんの現場に入った新人は、何が違うと感じましたか。

ショッカーO野

基本、我々が入る現場は殺陣師やアクション監督を中心に動いていますので、違いというのは、それぞれのやり方・スタイルなんでしょうけど、特に「エ~ッ、違う~~」みたいな事は感じなかったですが、『10号誕生❣ 仮面ライダー全員集合❣❣』の撮影初日の時、岡田さんから「大野、お前立ち廻り上手いんだってナァ~❓ 今日は頼むゾ」と言われたのが嬉しかったですネェ~

実は、岡田さんとウチの事務所の水多優雄(みずたまさお)社長とは長年の親友だったので、そんな事を言ってくれたんだと思います。有難かったデス❣❣

一方、金田さんとは『宇宙刑事ギャバン』『宇宙刑事シャリバン』でお世話になってましたが、これは岡田さんもそうですけど、僕みたいに他所の事務所から手伝いに来たスタントマンに対してもJACメンバーと変わらずに起用して下さり、特に金田監督には四半世紀後に劇場映画『スーパーヒーロー大戦Z』の時に「今度戦闘員でコミカルなシーン撮りたいからO野チャン出てヨ❣❣」と直接オファーして下さいました。

昨年1月に岡田さんと金田さんお2人に業界初の共演を依頼し『ショッカーツアーズpresentsレジェンドスーツアクタースペシャルトークショー』でご出演頂いた時、周りは「一体どうなるんだろう❓」と緊張していたそうですが、元々剣友会が担当していた『仮面ライダー』でトランポリンを担当していたのが金田さんや春田純一(はるたじゅんいち)さん達、出来たばかりのJACメンバーだったので、「金チャン達が俺たちの代わりにトランポリン演ってくれたんだヨ❣❣」と岡田さんが称えれば、「いやいや岡田チャン達が周りで補助してくれてたから安心して飛べたんですヨ❣❣」と、当時から固い友情で結ばれていた事にとても感動しました。

06大葉健二さん

Kyoudai Express

『ギャバン』の現場で大葉健二さんと出会われました。撮影の日々の中で大葉さんはどんな方でしたか。いちばん好きな大葉さんの思い出を教えてください。

ショッカーO野

初めてお会いしたのは『電子戦隊デンジマン』41話の撮影に参加した時(吉見百穴ロケ)、まだ新人だった僕は、健二さんがご自身でデンジブルーのスーツアクターを担当されてる事にまずビックリ、さらに天井の低い洞窟の中で手乗り宙返りをされてる姿に度肝を抜かれました。

『ギャバン』の撮影にはゲストで子役ちゃん達もよく出るのですが、子供好きな健二さんは空いた時間とかに、子役ちゃんともよく遊んでて、本当に優しい方だナァ~と思いました。

個人的な想い出としては、よく飲んだ事。倒れる数日前にも朝までご一緒してましたが、一番印象に残ってるのが、新宿で土砂降りの中、後楽園の打ち上げ後の健二さんと夜11時頃合流し、思い出横丁界隈をハシゴして、気がついたら健二さんと2人きりで朝5時半にカツカレーを食べた事❣❣

「健二さん、朝ですヨ❣❣ 雨も止みました❣❣」と健二さんを起こし、雨上がりの新宿駅で別れて帰宅すると、マンションの1Fが泥だらけで。実はこの日が後に「ゲリラ豪雨」と最初に認定された日だったのデス。

「ゲリラ豪雨」誕生の日、ギャバンと朝まで飲んでカツカレーを食べてたの巻。

大葉健二の肖像と「Forever in our hearts」の文字が入った黒いTシャツを掲げるショッカーO野
2026年5月に71歳で亡くなった大葉健二さんを偲ぶTシャツを掲げるショッカーO野。プリントには大葉さんの肖像、「Forever in our hearts」の文字、二代目ギャバンの石垣佑磨さん、ギャバンのスーツアクター村上潤さん、愛弟子の武智健二さん、藤榮史哉さん、健二さんの次女新葉尚さんら仲間の名前とO野さんの名前が並ぶ。2026年9月21日に東京・渋谷で開かれた『ショッカーツアーズpresent 大葉健二さんの想い出を語る会』で販売されたもので、期間限定で通信販売もしている · ショッカーO野提供
Kyoudai Express

戦闘員のスーツの中の名もない存在から始まり、今では観客に顔と声を知られる存在です。その変化はどんなものでしたか。「見えない側」だった頃が懐かしくなることはありますか。

ショッカーO野

近年、街でたまに「『スーパー戦隊魂』行ってます❣❣」と、ファンの方から声をかけられる事もありますが極まれだし、特に変化を感じた事はありません。

07石ノ森先生

Kyoudai Express

石ノ森先生のお宅で何年も仕事をされ、芸名も先生ご本人に認めてもらったそうです。日常の先生はどんな方でしたか。芸名をめぐるやり取りはどんなものでしたか。そして先生は、ヒーローショーや、ご自身のキャラクターを演じるスーツアクターのことを気にかけていましたか。

ショッカーO野

今の自分の人生があるのは、まず石ノ森先生なくしては語れません。

小学校低学年の時、大好きだった作品が『サイボーグ009』、そして5年生の時に『仮面ライダー』と出会い、以降『好き!すき!! 魔女先生』『変身忍者嵐』『人造人間キカイダー』『イナズマン』……と、夢中になって観ていた特撮ヒーロー番組のどれもが「原作・石森章太郎」❣❣ いったいどんな方だろう❓ と思いつつ、高校生の時に「サークルテレビっ子センター」というサークルに入会した流れの中で、「石森章太郎ファンクラブ」の存在を知り入会すると、18歳の時に、当時先生がネームを考えていた桜台の喫茶店「ラタン」で遂に生涯の師匠と出会えました。

同じ頃、「サイボーグ009ファンクラブ」でモノクロ版アニメのオープニングを実写版で撮っている事を話したら「009は君が演ってるの❓」と優しく話しかけて下さいました。数多の名作を世に送り出している大巨匠なのに、ちっとも偉ぶらない温厚なお人柄。以来、作品のファンであると同時に、人としての石森先生のファンになり、ファンクラブ活動を始めました。

さらにファンジンで一番歴史がある(60年以上)石ノ森章太郎ファンクラブには、特撮ライターのパイオニア・池田憲章(いけだけんしょう)さんをはじめ、ライター、構成作家、プロデューサー、編集者といったこの時既に業界で活躍されている諸先輩方も多く、此処で出会った仲間達の中には今でも兄弟以上のお付き合いをさせて頂いてる方も居ます。

僕が『桃太郎電鉄』の作者・さくまあきらさんの下でラジオに出始めた頃(劇場映画『北斗の拳』の宣伝番組『アタック❣❣ 北斗の拳』)、さくまさんが番組内で「ショッカーも居ます」と言ったら、さすが当時400万部以上を売り上げていた少年ジャンプの読者ページ「ジャンプ放送局」の構成作家さくまさんの番組で、聴取率トップを獲得してる中での「ショッカー」なので、リスナー達の反響が大きく、こうなると例え敵キャラとは言え、このまま勝手に使う訳にはいかないと思い、石ノ森先生に直接相談すると、「大野、俺が名付け親なら問題ないだろう❣❣」の一言で、以降、この名前とも40年以上の付き合いとなりました。

全てが石ノ森先生のおかげデス❣❣

08恩師との突然の別れ

Kyoudai Express

1998年1月、石ノ森先生が亡くなったあの日、O野さんは騒ぎのまん中にいらっしゃいました。藤岡弘、さんにO野さんを頼るよう伝えたのが、『仮面ライダー』のプロデューサー・平山亨さんだったそうですね。あの日は何があったのですか。

ショッカーO野

それは、全く予期せぬ出来事でした。午前中に健康診断を終え、近所の蕎麦屋で遅い昼食を摂っていると、石ノ森章太郎ファンクラブ会長にして石森プロOBで、当時は週刊誌の副編集長だった青柳誠(あおやぎまこと)さんから電話が入り、「石ノ森先生が亡くなったという情報が入って来たんだけど本当か❓」「いや、今朝、石森プロの後輩(常務取締役)と電話してたけど何も言ってなかったし、デマでしょ❓」 とても信じられる事ではなかったので、そう言って電話を切りました。

すると今度は東映本社で写真の整理をしていたライターの先輩から「石ノ森先生が……って噂が入って来て、今、東映社内は上を下への大騒ぎだけど本当なのか❓」と、全く違う方向から同じニュースが立て続けに飛び込んで来たので、これはと思い、朝電話していた石森プロの後輩にかけると、「実は……」との事で、「まだマスコミ発表前で極秘事項だったので、大野さんにも言えず申し訳ありませんでした」と。正に青天の霹靂でした。

すぐに帰宅すると、某テレビ局のワイドショーがいきなり速報を出し、当時、ゲーム機セガサターンのCMキャラクター「せがた三四郎」で大ブレイクしていた藤岡弘、さんへの電話インタビューを放送していました。その直後から我が家の電話が鳴り続け、内容はいずれもニュースの真偽についてなのだけど、僕自身も勝手な事を言う訳にはいかないので、「石森プロに聞いてください」というと、「石森プロの電話が全く繋がらないんです❣❣」と。

結局その日僕はそのまま4時間半、電話対応に追われたのですが、そろそろ落ち着きかけた時にまた一本の電話が。「もしもし、藤岡弘です」 ワァッ、さっきテレビで電話インタビューを受けてた藤岡弘、さんからの電話で、藤岡さん御本人も、僕が見ていた電話取材で初めて聞いたとの事で、同じくそれを見たマスコミ各社から一斉に問い合わせの電話が殺到し、中には藤岡さんに「記者会見をやって下さい」等というお門違いなマスコミもいたそうでした。

藤岡さんは、『仮面ライダー』の主役俳優さんであって、また当時CMで大ブレイクしていたけど、それと石ノ森先生の件は全く別物なので、一体どう対応したら良いか困り果てて、元東映で『仮面ライダー』のプロデューサーだった平山亨(ひらやまとおる)さんに相談されたそうで、その時の平山プロデューサーのアドバイスが「困った時にはショッカーO野に聞くと良い」だったそうで我が家に電話が。

早速再度石森プロの後輩に連絡すると、その日の夕方、急遽京王プラザホテルで先生の息子さん達が記者会見をする事になり、その事を藤岡さんにも伝え、マスコミ攻勢を鎮静化させる事が出来ました。

その後、平山さんから、「いやあ、あの時はネ、藤岡君が本当に困ってたんでどうしようかと思って『困った時はショッカーO野に聞け』って言ったら、貴方がちゃんと対応してくれたから、あれ以来、藤岡君は貴方の事を信頼しているんだヨ❣❣」と笑いながら話してくれました。

平山さんは、僕の実の父と同じ歳で誕生日も近く、僕自身早くに父を亡くしたので、「業界のお父さん」として可愛がって頂き、後年、僕がプロデュースする特撮番組『ボイスラッガー』でも総監督をお願いしましたが、本作こそが、恩師石ノ森章太郎先生の遺作となりました。

09新宿NSビルと、なりた洋師匠

Kyoudai Express

80年代末の新宿NSビルで、ショーの後に出演者が観客と話す場を始められました。どうしてそのアイデアが生まれ、今日のトークショー文化はそこから始まったと思われますか。

ショッカーO野

NSビルのヒーローショーは、『大戦隊ゴーグルファイブ』ショーの頃からやっていて当初は大野剣友会が担当してました。

これはNSビルのヒーローショーを企画・プロデュースしていたKプロダクションの古泉雅(こいずみただし)社長が、元々『仮面ライダー』や『イナズマン』他、生田スタジオで進行主任を経て東映企画プロモーションで活動されてた御縁もあり、剣友会の岡田さんとも懇意にされてた事もあり、さらに東映にいらした事で撮影所に話を通し、俳優さん達の出演も可能にしたのでした。

そして、チームは剣友会から東映の事業部を経て、新堀和男さんが立ち上げたレッドアクションクラブに引き継がれ、その時に僕がMCとして呼ばれたのでした。まだ、後楽園ゆうえんちで役者公演を始めるだいぶ前の事でした。

新堀さんとは、「他では観られないショーをやろう」という事と「新堀さんがやるのなら」とJACも全面協力して、結果、今も特撮ファンの間で伝説となっている変身前の俳優に加え、スーツアクターも撮影に参加しているオリジナルメンバー、音響は後楽園も担当していた山本音響、司会ショッカーO野、そして、構成・演出・アクション監督新堀和男という布陣で、8年間、新宿NSビルのゴールデンウイークの名物となり、現在みたいにSNSの無い時代に連日2000人を超えるファンが集まってました。

楽しかったですネェ~

Kyoudai Express

後楽園の名司会・なりた洋さんから多くを学ばれたそうです。良いヒーローショーの司会者とは何でしょう。1980年と今で、この仕事は何が変わりましたか。

ショッカーO野

後楽園ゆうえんち野外劇場&スカイシアターの顔と言えば、司会の「ヒロちゃん」こと、なりた洋(ひろ)師匠でした。

『電子戦隊デンジマン』ショーの頃から『炎神戦隊ゴーオンジャー』ショーのラスト公演まで約30年に亘り、チビっ子達とヒーローを繋げた立て役者ですが、野劇の2000人もの観客を一気にまとめるMC力は本当に素晴らしく、何よりトークに無駄がない❣❣

30分足らずのショーの中にアクションあり、芝居あり、スタントあり、大仕掛けなセットありで、それをごく自然の流れのように進行していく技術は最早芸術で、何十回、何百回とステージを拝見して、徹底的に研究し、個人的にもよく飲みに行きました

僕を本名の「ヒロシ」と呼んで下さり、「お前の方がヒロちゃんだナァ~」と笑ってましたっけ。

想い出に残っているのは、2006年の第2回目の『スーパー戦隊魂』ライヴのラストに、サプライズでヒロちゃんが登場し、師弟で「Wま~たねぇ~」が出来た事❣❣ 客席を見渡すとガッツポーズをとる人、泣いてる人、とにかく皆さんが喜んでくれて最高でした

だから、今も続く『スーパー戦隊魂』の中で、僕自身がそんなヒロ師匠リスペクトMCを続けているのデス☆☆☆

今年2026年も11月7~8日・ZeppDiverCityで東京公演2Days、11月15日・なんばHatchで大阪公演開催します❣❣

10スーパーヒーロー魂とアニキ

Kyoudai Express

『スーパーヒーロー魂』は1999年のO野さんの発案でした。第1回はどんなものでしたか。MoJoさんをどうやってステージに呼び戻したのですか。

ショッカーO野

第1回目の時はMoJoさんは出てません。初めましては串田アキラさんと宮内タカユキさんでした。

当初、バースデーソング・山岸達治(やまぎしたつじ)社長から「今度、アニメジャパンフェスティバル」っていうイベントを2日間に亘ってやるんだけど、1日は『スーパーロボット魂』だとして、もう1日何か企画ない❓」と聞かれたので、僕が考えるなら、それまで誰もやらなかった特撮番組縛りのライヴをやりたいと思ってたので『スーパーヒーロー魂』と提案し、当日を迎えたら、オープニングで僕が登場する場面で、未だ入場が終わってないくらい人が一杯で、1曲目、クッシーの『宇宙刑事ギャバン』のイントロが流れた時の会場のどよめきと興奮、歓声は半端なかったデス

実はその1曲目の時、クッシーのマイクが入ってなかった❣❣ 普通ならトラブル発生で場内も「どうした❓」となるところだけど、誰もその事に気がつかない。何故なら観客全員がギャバンの歌を大合唱していたからなのでした。あの頃、まだスタッフも不慣れで、その時クッシーが渡されていたマイクには「水木一郎」と書かれていた。

で、とにかく『スーパーヒーロー魂』の人気が凄いという事になって、それまで秋のツアー(東京公演~大阪~名古屋)は『スーパーロボット魂』だったのが、その年は『スーパーヒーロー魂』に差し代わり、その時にMoJoさんが初登場したのでした。

MoJoさんとは、本番直前の渋谷オンエアーイースト(現・O’EAST)の舞台袖楽屋で初顔合わせ❣❣ 「ド~モ、MoJoデス」って言われた時、「本当にいるんだ❓」と思いました。自分にとっては戦隊にハマるきっかけになった『バトルフィーバーJ』に現役アクションマンで出演していた『大戦隊ゴーグルファイブ』『科学戦隊ダイナマン』の主題歌シンガーだし、それ以来、とっても可愛がって頂いて、その後約10年に亘り、プライベートライヴの企画・構成・選曲・司会もやらせて頂きました

スーパー戦隊柄のバンダナでマイクを握るショッカーO野
マイクを握るショッカーO野。舞台でのトレードマークになったスーパー戦隊柄のバンダナ · ショッカーO野提供
Kyoudai Express

水木一郎さんの「アニキ」という呼び名は、1997年にO野さんが司会したライブで生まれたそうです。あの瞬間はどんなものでしたか。25年間、水木さんと一緒に仕事をするのはどんなことでしたか。2018年から構成・選曲も担当されています。曲はどう選び、この長い歴史の中でいちばん実現が難しかった曲は何でしたか。

ショッカーO野

『スーパーロボット魂』の前身『ロボネーションライヴ』の1曲目、総勢22名のバンド演奏で『マジンガーZ』のイントロが鳴る。ブラスの音を聞きながら、思わず舞台袖で涙が流れました。

大歓声の中、水木一郎さんが登場❣❣ 曲が終わると惜しみない拍手と大きな声援。その中、MCの僕が聞いたのは、その多くが「水木さ~ん」 中には「水木先生」「師匠」なんてのもあった。会場には水木一郎ヴォーカルスクールの生徒たちも多数来ていたからそんな声も届いたんだと思いますが、次の瞬間、僕が言ったのは、

「確かに水木さんは大御所だしキャリアを考えれば、先生や師匠と呼ぶのも分かります。でもね、もっと親しみやすい性格なので、水木一郎はオレたちみんなのアニキなんじゃねぇの❓」

すると場内が割れんばかりの拍手と「オォ~~ッ」という大歓声。「じゃあ、せ~のでアニキだ、せ~~の~~」「アニキ~~~❣❣❣❣」すると水木さんも我が意を得たりといった感じで「アニキだゼェ~~ット❣❣」 アニキ誕生の瞬間でした。

それ以来、アニキとは北は北海道から南は九州と日本全国を周ったり、いろんなイベントをご一緒しましたけど、一番印象に残っているのは、フジテレビで全国放送もされた『水木一郎24時間1000曲ライブ』で総合司会をやらせて頂いた事ですネェ~

これはアニキだけじゃなく、ささきいさおさんも堀江美都子さんも藤岡弘、さんや佐々木剛さん、伴大介さん、宮内洋さん、金子吉延さん等、幼い頃、子供の頃からテレビで夢中になって見たり聞いたりしていた方々と一緒に仕事をしたり、プライベートをご一緒したりする中で、ふと子供の時の自分に「お前は、この大好きな人に頼られる日が来るんだゾ❣❣」と伝えたくなる時があります。

11仮面ライダーの奇跡

Kyoudai Express

後楽園のヒーローショーの歴史について本を書かれています。調べる中でいちばん驚いたことは何でしたか。ここで話したい野外劇場の裏話があれば、ぜひ。

ショッカーO野

『スーパーロボット魂』とかもそうですが、この本の企画が上がった際にライター&インタビュアーとしてのオファーが来た時、よくぞ俺に振ってくれたと思いました。

後輩ライター達だとJAC情報については書けても大野剣友会がやっていた頃の話や関係者インタビューとかってどうしたもんだと悩んでいたようですが、そんな時こそ僕の出番だったようで、岡田勝さんや中屋敷哲也さん、新堀和男さんといったお歴々に加え、長年に亘ってCMナレーションを担当した我が声優の師匠・神谷明さんへのインタビューも決行出来ました❣❣

そして、声優と言えば、同じ頃、アニメの仕事でとあるアニメスタジオに行った時、そこで出会った声優さんにご挨拶して名刺を渡すと「エッ、ショッカーO野さんて大野剣友会と関係あります❓」「まあ、親戚みたいなもんですけど」「中屋敷哲也さんてご存知ですか❓」「御存知も何も、とても可愛がって頂いてる大好き先輩デス」「実は私子供の頃から『仮面ライダー』が大好きで、中学の頃、毎週のように後楽園ゆうえんちに通ってたら剣友会の人達に覚えられて本当に良くして頂いて中でも中屋敷さんご夫妻に……」って、こんな事ってあるんですネェ~❣❣

かくして僕が中屋敷さんに連絡して2人は14年ぶりに再会し、今も家族ぐるみのお付き合いをされてますが、この時の声優さんが小林優子(こばやしゆうこ)さんで、僕もそれ以来、「ライダーファン」同士として、今も『平成ゴジラシリーズ』の造形プロデューサー・若狭新一(わかさしんいち)さん、「劇団☆新感線」のアクション監督・田尻茂一(たじりしげかず)さん、『スーパー戦隊シリーズ』のピンクや『平成ゴジラシリーズ』でメカゴジラのスーツアクターを務めた中川素州(なかがわもとくに)君達と「少年仮面ライダー隊」というグループ名でチョイチョイ浅草で飲んでますが、その時、正に『スーパーヒーローショー大百科』を編集している最中で行き詰っている事がありました。

それは、野外劇場の写真、特に大野剣友会が担当していた頃の『仮面ライダー』ショーの写真が劇的に少なかった事で、後輩ライターも「大分年月が経ってるので集めるの難しいですよネェ~」と諦めムード。と、そんな時ふと思い出しました❣❣

「ネエ優子ちゃん、後楽園の『仮面ライダー』ショー、よく行ってたら、写真とか撮ってない❓」「ああ、当時お父さんが毎回撮ってたから実家に帰れば残ってるわヨ❣❣」

かくして本来、予定出来なかった『仮面ライダーV3』『仮面ライダーX』『仮面ライダーアマゾン』『仮面ライダーストロンガー』の頃の貴重な写真が一気に揃うという、これぞ「仮面ライダーの奇跡」❣❣

居酒屋のテーブルで友人2人と並ぶショッカーO野(右)
居酒屋の夜のショッカーO野(右)。中央はアクションの師匠である「ミスターレッド」こと新堀和男氏、左は田尻茂一氏。「少年仮面ライダー隊」も、この章の話の多くも、こうした席から生まれた · ショッカーO野提供

12スーパー戦隊の終了

Kyoudai Express

スーパー戦隊シリーズの終了について、率直なご意見をお聞かせください。

ショッカーO野

昨年の『スーパー戦隊魂』の前々日、『五星戦隊ダイレンジャー』のNewJack拓郎さんから「ショッカーさん、そろそろ次の戦隊の情報来てるでしょ❓」「いや、2、3日前竹本昇(たけもとのぼる)監督とも話してて『いつもならそろそろ発表があってもいい頃だけど、今ないって事は、もしかして……』なんてな」って話した後、帰宅してスマホを見たら☆☆☆☆ まさかのネットニュースが❣❣

でも公式が何も発表してないから様子を見ようと思ってました。

で、翌日の『スーパー戦隊魂』初日。コロムビアレコードの担当さんから、「本件については当社も何も聞いていないので、ライヴではこの話題は触れないように」いやいや、出演者の皆さんは納得したとしても、冒頭で僕が何も触れないと観客やネット配信で観てる人たちがモヤモヤするでしょう❓ って事で、コロムビアの担当さんに「何処までなら話して良い❓」とギリギリ話せるところ、モチロン、公式が何も言ってないので勝手な事を言うつもりは毛頭なかったけど、これまで50年間に亘り積み上げてきたコンテンツが「ただ終わる」とは思えなかったので、「来年『ウルトラマン』は60年、『仮面ライダー』は55年を迎えますが、今どちらもやってます❣❣」と事実を伝えただけで、後はライヴを思いっきり楽しんでもらおうと思ってたら突如浮かんだ魔法の言葉

「今までの人生、つらい時、悲しい時、身近で寄り添って元気をくれたのが『スーパー戦隊ソング』じゃないの❓ 今宵はそんな珠玉の名曲に酔いしれて大いに盛り上がろう❣❣ だって生誕50周年のお祝いだもん」

だから、今年のライヴのタイトルも『スーパー戦隊魂Forever』なのデス。

Kyoudai Express

1980年から今日まで、特撮を内側から見てこられました。現場、ショー、そして観客について、良い方向にも悪い方向にも、いちばん変わったことは何ですか。

ショッカーO野

「特撮大好き」って言ってくれる若い女性のファンが増えたのが明るいニュースかナァ~~。

とにかくすそ野が広がる事は嬉しいし、特にこうして地球の反対側の皆さんや世界中の皆さんと特撮を通じて繋がれるのって素晴らしい事だと思います。

13究極の仮面ライダーショー

Kyoudai Express

平山プロデューサーを介して藤岡弘、さんとも親しくされるようになったそうですね。藤岡さんとのお付き合い、そして特に心に残っているショーについて教えてください。

ショッカーO野

平山プロデューサーを介して藤岡弘、さんとも親しくさせて(戦友と呼んで下さるのが本当に幸せデス)頂くようになったのですが、実はその数年前、神奈川県横須賀で『仮面ライダーショー』をご一緒した事がありました。藤岡さんの友人で映画『人間の証明』のテーマでも有名な歌手のジョー山中さんが、毎年クリスマスに、ご自身が育った施設の子供たちの為にコンサートをやっていらして、そこに藤岡さんも参加される事になり、それを知ったスタッフから「せっかく藤岡さんが来られるのなら『仮面ライダーショー』が出来ませんか❓」という話が新堀さんにあり、「O野、悪ボス演ってくれるか❓」とオファーを頂きました。

そして、横須賀の会場には、後に日本のアクション界で大活躍する『平成仮面ライダーシリーズ』の高岩成二君をはじめ、新堀さんを慕う若手アクションマンが集結し、僕が演じる悪ボスの命令一下、藤岡さん=本郷猛と戦い、変身した仮面ライダー1号(この日は、後に『ゼイラム』や『平成ゴジラ』を担当する吉田瑞穂君が担当)と戦って、子供たちに喜んでもらい山中さんからも大変感謝されました。

そして、藤岡さんと本格的に活動させて頂くようになってからは、東京はもとより関東各地や、長野、名古屋、大阪、九州他、全国各地でイベントをやらせて頂きました。『福岡国際ヒーロー映画祭』では、藤岡さんのデビュー40周年イベントの構成と司会もやらせて頂きました。

2011年の東日本大震災発生直後には、一緒に宮城県石巻の被災地に行き、駅前でトークショーをし、直接避難所を巡り、被災者1人1人を激励する姿に「ああ、この人は本当に正義の味方『仮面ライダー』そのものなんだ❣❣」と感動したものです。モチロン、復興後も石巻に行き、石ノ森萬画館が復活した日にも共に駆けつけ、トークショーを展開しました。イベントをやる事によって子供達や皆さんが笑顔になる事が本当に嬉しいデス❣❣

そして、笑顔と言えば、藤岡さんとは、いろんな所でバッタリ会う事がありました。会えば当然我々は笑顔になるのですが、この日僕達は『昭和仮面ライダーショー』で千葉県某市の市民祭りへ。何故『昭和仮面ライダーショー』かというと、呼ばれたのは「子供ショー」ではなく、市民祭りのスタッフ達の慰労会の為、青年商工会議所がクライアント。なのでお祭り終了後に「大人達に向けた『仮面ライダーショー』」だったので、登場するヒーローが、1号、V3、RX、悪者がショッカー怪人とシャドームーンなのですが、こういうショーの時は若手ではなく、僕達世代のメンバーが中心に呼ばれるのですが、これが皆『仮面ライダー』ドストライク世代なので、何なら台本なんかなくてもリハで立ち廻りをつけながらアドリブでドンドン芝居が出来上がって行きます。

いつもだと、ショッカーが会場を襲っている所へ1号とV3が交互に登場し、途中のお遊びコーナーを挟んで再び1号&V3が登場するもシャドームーンによりピンチを迎え、そこにRXが現れシャドームーンと一騎討ち、さらに1号&V3がショッカー怪人を倒して終了というパターンが王道だったんですが、この日は「たまにはパターンを変えよう」と、先にV3とRXを出してラストに1号が助けに入る流れでリハーサルをして、リハ終わりで会場の様子を見に行くと、ナント、そこに藤岡さんの姿が!?

ビックリしてそ~っと藤岡さんに声をかけたら大変驚かれてましたけど、それはコチラも同じ事。聞けば、市民祭りのメインゲストでお昼に別会場で講演をされて、本来ならそれで東京に帰られるはずだったのが、藤岡さんの大ファンという市長さん(こういうパターンが近年メチャメチャ多いですネェ~)のたっての願いで、講演終了後、時間の許す限りという条件で藤岡さんが来られたとの事。

「エェッ、どうしたの!?」「今日は本当にショッカーです!!」「ハッハッハ……、じゃあ、O野チャンのショッカーが観られるんだ。あ、でもネェ、時間の関係で途中までしか居られないんだヨォ~」とニコニコ笑顔で接してくれました。俄然、やる気満々でショーに臨みました❣❣

「この会場は我々ショッカーが……」悪ボスによる冒頭の演説をしていると、視界の端に藤岡さんの笑顔が……。「何か知らんが今日は会場から強い圧力を感じるナァ~」などとアドリブが出る。会場に集まった青年商工会議所の皆さんも藤岡さんが居るのを分かっているので全員大爆笑。さらに藤岡さんは悪ボスである僕のメインであるお遊びコーナーにもしっかり残ってて下さって微笑んでくれてました。

その後、「会場を襲え、かかれ~~!!」「待て~!!」とV3、RXが登場するも、ショッカー怪人&シャドームーンによって絶体絶命!! 司会のお姉さんが「みんな、仮面ライダーを呼んで」「仮面ライダー❣❣」打ち上げでアルコールも入ってるので役所の方達もノリが良い。するとそこへ「ブィィィィン❣❣」とサイクロンの爆音が……。「いや、そんなはずは…… さっきからあそこに……いない!?」藤岡さんは次の仕事に行かれたようだった。

そして、客席後方から現れる仮面ライダー1号。演ずるは映画『スーパーヒーロー大戦』でも1号を演じた大野剣友会OB椎名和隆君。いやあ、最初から何の打ち合わせもしてないのに、たまたま1号の登場がラストだったという構成といい、藤岡さんが市長さんの願いを聞いて別会場から来られた事といい、さらにショーの途中で藤岡さんが退場されたタイミングといい、全てが神懸っていた、正に究極の仮面ライダーショーでした。

14HERO

Kyoudai Express

スタントマン、出版社の営業、放送作家、マネージャー、テレビのプロデューサー、声優、司会者、著者。振り返って、これらすべてをつなぐものは何ですか。その中で「これが自分だ」と思うものはありますか。これまでの仕事の中で、いちばん誇りに思うものは何ですか。やり直したいと思うものはありますか。

ショッカーO野

今度、ポルトガル語版が出る「ショッカーO野の熱血ヒーロー日記」にも書いてありますが、ズバリ「HERO」デス。

特撮のロケ地として使われる採石場を背に立つショッカーO野(中央)と仲間2人
数えきれない特撮の立ち廻りの舞台になった採石場に立つショッカーO野(中央)。左は「宇宙一スーパー戦隊シリーズを愛する演出家」こと竹本昇監督、右は『激走戦隊カーレンジャー』『救急戦隊ゴーゴーファイブ』他スーパー戦隊シリーズで何作もピンクの戦士を演じたスーツアクターで俳優の中川素州氏、共に「プロの特撮ファン」としての絆に結ばれている戦友である。ガイドツアーでファンに案内するのもこうした場所だ(『ショッカーツアーズpresent岩船山爆破体験バスツアー』より) · ショッカーO野提供
Kyoudai Express

ブラジルでは多くの人がジャスピオン、チェンジマン、ジライヤ、シャリバンを見て育ちました。O野さんが近くにいた作品です。そのファンに向けて伝えたいことは何ですか。

ショッカーO野

これからも日本の特撮ヒーローを応援して下さい。

この10~11月にもブラジルから「特撮ツアー」で20名ほど日本に来てくれ『スーパー戦隊魂』や『寄居爆破体験ツアー』があったり、僕も都内の特撮の聖地のツアーガイドをさせてもらいますが、今度は、僕がブラジルに行って、先日クラウドファンディングに協力してくれた「アミーゴ」達に御礼が言いたいデス

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Kyoudai Express独占インタビュー(2026年9月、ショッカーO野)。転載の際は、本ページへのクレジットとリンクをお願いいたします。
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